1994年に国連の会議(通称「カイロ会議」と呼ばれます)で「リプロダクティブヘルス・ライツ」(性と生殖に関する健康と権利)というものが決議されました。つまりそこで初めて「産む産まないに関わらない女性の権利」が認められるようになったということなんです。中でも驚きだったのは、「リプロダクティブヘルス&ライツ」の中で<母子保健からの脱却>があったということです。
そこをわかりやすく説明願えますか。
これまで母子保健の考え方は「母子」であり、母体個人ではなかった、ということですね。
ところが、リプロダクティブヘルスの決議で、女性(妊産婦さん)自体が権利の主体であると捉えられるようになっていった、と。
そうです。妊娠出産、避妊や中絶について、女性が自身の権利としてどうするかを決めるということについてリプロダクティブヘルスは肯定的。一方、男性は自分で産めないので生殖に関する権利が少ないと、その中では考えられています。
それはどうしてですか?
精子の行先を男性は自分では決められないから。また、生殖で男性が死ぬことはないから、ですね。なぜリプロダクティブヘルスが主に女性かと言えば、妊娠をすることで、あるいはしないことで、女性は健康を害することがあるから、なんです。
となると、妊娠をすることに関連した健康を中心に考えるのが、リプロダクティブヘルスということになりますね。
ただ、そこで「いや、ちょっと待てよ」と引っかかるものがあるんですね。
どういうことでしょう?
女性は妊娠をすることもあるし、しないこともあるし、したくないこともありますよね?じゃあ、その時のその人の権利は何なんだ――そう考えた時に、セクシュアルヘルス&ライツ(性の健康と権利)という発想になる。冒頭でお話した94年の国連のカイロ会議以降、リプロダクティブヘルスの考え方を通じて避妊や中絶に関する権利がそこに含まれたことは、非常に大きなことなのです。女性が自分の身体に対して自己決定ができたり、自分の健康を守る方法を取ることを誰にも邪魔されないということになりましたから。でも、避妊や中絶という話は、やはり妊娠出産に関係している。妊娠出産だけが女性の健康ではないだろうと考えると、性的な話全般に関する健康や権利の概念が必要になってきます。
そこで登場するのが「性の健康」と「性の権利」ということですね。
ええ。「妊娠出産だけに限定しない、セクシュアルヘルス&ライツ(性の健康と権利)が誰にでもあるよね」という表現になってきたということです。つまり、「誰にでもある自分らしさをそのままでいる権利」、ですね。これって当たり前のことだと思いませんか?
もちろん、極めて当たり前のことだと思います。
英語では「権利」のことを「Rights」と言いますが、Rightsの本来の感覚に近い日本語は「ありのままであること」「そのままであること」なんです。もっというと、「どこかからもらってくるものでも、誰かから許可されるものでもない、もともとこういうものなのです」と私は理解していて。ここで、このサイトのテーマである性交痛と結びついてくるわけなのですが、上記の考え方からいくと、「痛いセックスはあり得ない」という話になります。
痛いプレーが好きな人はそれでもいいけれど、許容範囲外の痛みが伴うとか、痛みを希望していない性的な行為に関して痛みがあるというのは大変な問題ですね。
あるいは不快感があるとか、本当はしたくないことをしたりさせられたりするという時点で、それはもう被害ですよ。被害と言ってしまうと男性側により強い反発が出てしまうかもしれませんが。「そんなことを言いだしたら、もう何もできないじゃん」という感想を持つ男性の方もいるかもしれません。でも、そういうことを言っているわけではないのです。一方的に男性を責めているわけではありません。とはいえ、そのへんの加減は、難しいところだとは思います。
国際学会に行って詳しく話を聞くと、決してそんな極端な話ではないということが分かるのですけどね。
日本に帰国すると、成田からこっちが灰色みたいに見えます。日常生活の楽しい人間関係のなかでのエロ色は消えている一方、商業的な文脈のピカピカピンクはすごく煌々としている。そのピンク色、さくら色でいいから日常の人間関係のなかにください(笑)。
あぁ、その感覚はわかります。国際学会で色々な人と会って色々な発表に触れていると、性は実に豊かだということが実感できる。一方で、帰国すると急にその豊かさを感じられなくなってしまう。先生がおっしゃっているのは、そういうことですよね。
今回は「性の健康」という考え方が登場してきた経緯と、それがどういうものなのかについて語り合いました。次回は、人間の性を科学する「性科学」の知見があることで性の健康が推進されるというお話です。
「性の健康」という考え方は、どのような過程を経て成立してきたのでしょうか。