炊飯器で炊いたらおいしいお米を食べられるはずなのに、水に入れて火にかけるだけの調理だと、お米本来の美味しさを堪能できない場合が多いですよね。日本人は工夫も得意だし最先端なものも好きだと思うんですが、性に関する領域だけはいつまでも楽しみ方を学ばないのはどうしてだろうかと不思議に思っています
そういったものを向上させようとしないのは、知識やスキルの不足もそうですが、性の健康の意義や重要性への理解がないのかもしれませんね。
一般の方だけでなく専門家や専門職と呼ばれる方でも、「性」の話題を「健康」の話題として実感できないこともあるようです。でも例えば、こういう風にイメージしたらどうでしょうか。「セックスがうまくいかなくて落ち込む」「恋人と別れてうつになる」そういうことは日常の中で誰にでも起こる可能性があります。それは、性に関する事柄が健康を害する可能性のある事象だからであって、塩分を摂りすぎて頭痛がするのと変わらないです。健康というのはその人のトータルのウェルビーイング(幸福)を表す考え方なのだから、性は確実に入りますよね。むしろ真っ先ですよね。
対談のVol.1の記事でも話題に出しましたが、リプロダクティブヘルスは生殖のことを念頭にしていました。
生殖。日常ではあまり目に触れない言葉な気もしますが、「赤ちゃんを作って次の世代を育む」と言い換えるとイメージしやすそうですね。
そうですね。生殖はすべての人に関係するわけではなく、すべての人が妊娠するわけでも妊娠したいわけでもありません。性の健康はその手前にある個人のセクシュアリティの話です。
セクシュアリティって何?
性という言葉から「性別」を連想する人は多いかもしれません。性別はその人の性の在り方を決めるもののひとつです。
自分の性別から離れて生きられる人はいません。自分の在り方を決めているものだからです。ただ、性別だけがその人の性の在り方を決めているわけでもないのです。
「身体の性(どういう性別の特徴を持った身体をしているか)」
「こころの性(自分をどういう性別だと認識しているか)」
「好きになる人の性(恋愛や性愛の対象になる人はどういう性別か)」
「振る舞いの性(どういう性別の人として行動するか)」など、
複数の要素がその人の性の在り方を決めています。
この複数の要素によって構成される(≒その人がどういう人かを表現する)性の在り方のことを「セクシュアリティ」と言います。
性(セクシュアリティ)というのはその人自身の在り方、その人がどういう人であるか、その人が性的にどういう性質、特徴、好き嫌いなどを持っているかを表すものです。
個人のセクシュアリティと言った時に、生殖と結びつかないセクシュアリティを認めない人が出てきます。そういう人には、「生殖の時以外、絶対セックスしないの?絶対そういう気持ちにならないの?」と言い返したいところです。「性=生殖」というのは言い切りすぎだと思います。
「性=生殖(赤ちゃんを作って次の世代を育む)」と捉える人はそれなりに多いですよね。生殖と関係なくても、「快楽を得るため」や「親密な相手とのコミュニケーションのため」など、セックスの目的はあるはずなのに。
「私はこんな人で、今こういう欲求があって、こういうふうに生きていきたい。こういう経験をしたい」それが自由に表現できて、誰に否定されることもなく実現できることが性の健康であるということに尽きます。だから、性の健康は生きる健康であるとも言えると考えています。
いま先生がおっしゃった「生きる健康」というのは「生きるうえで根本にある不可欠な健康」あるいは「生きていくための健康」というくらいの、ものすごく重要なものだと理解しました。本当に、それくらいの重要性を持っていると思います。
そうですね。不可欠なものだと思っています。だからこそ、その最も根源的な部分で望んでいない痛みが出てくるというのは本当にあり得ないことです。
今回は性の話題というと「性=生殖」と捉えられがちだけど…?というお話でした。次回は、性の健康には当事者意識が必要というお話です。
前回の記事で教えていただいたなかで印象的だったことのひとつが「炊飯器の存在や鍋で美味しく炊く技術を知らなければご飯のおいしさが分からないように、性の豊かさを知らずして性の健康はない」というお話でした。知識を持つことの大切さを改めて確認しました。